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シャフリサーブス

シャフリサーブス

シャフリサーブス

シャフリサーブスはカシカダリア県の中心であり、サマルカンドの南90キロメートルに位置します。ギッサール山脈とザラフシャン山脈の山麓にあります。人口は約6万人です。今日、町は多方面で発達しています。すなわち、農業、食品加工業、観光、伝統工芸などです。

歴史:シャフリサーブスの遺跡と史跡

シャフリサーブス(ナウタカ、ケシュ)の歴史は2700年に及びます。これはローマと同じです。紀元前1700年には、ここに集落が存在していました。その歴史は驚くべきもので、内容に富んでいます。古代東洋にとって、シャフリサーブスは大きな意義を持っていました。東洋の重要な諸都市の多くと同様に、シャフリサーブスの町も華麗な称号を得ていました。すなわち、「学問と教育のドーム」「心を楽しませる町」などです。まさにここ、ナウタカでアレキサンドロス大王は冬営し、そのときに地元住民との同化の決定をしました。自身も「ソグディアナの岩壁」と呼ばれた難攻不落の砦を占領した後、ソグド商人オクシアルトの娘ロクサナを娶りました。シャフリサーブスにある多数の史跡は、町に古代の雰囲気を醸し出しています。

またケシュ近郊のシナム砦で、反アラブ(反アッバース朝)運動である指導者ムカンナア(ハーシム・イブン・ハキム)が生涯を終えました。1336年4月9日、ホジャ・イリガル村のバルラス部のタラガイ家にティムールが生まれました。後のアミール・ティムール、偉大な政治家・軍事指導者です。町は彼にとって聖なる住み家となりました。ここに彼の父タラガイ、霊父シャムスッディーン・クラール、彼の年長の息子たちジャハーンギールとウマル・シャイフが埋葬されています。彼自身も自分をここに埋葬するように遺言を残しました。石に一つの銘文が刻まれただけの質素な地下納骨所に。しかし、共同事業者たちや後継者たちはその遺言には従わず、彼の最後の避難所としてサマルカンドのグリ・アミール廟を選びました。

実際のところ、シャフリサーブスはサマルカンドに次ぐ、ティムール朝国家第2の都市でした。町は隅々まで整備され、飾られました。そこにはティムール朝の夏の宮殿であるアクサライが建設されました。巨大な建物であり、その頂上には「もし我の偉大さを疑うのであれば、我の建てた物を見よ」と書かれていました。町に到達しようとして馬を駆らせたため、その馬が死んでしまったということだけのために、征服者、ブハラのアブドゥッラ・ハンは怒り、ケシュの多くの建物を破壊したと言われています。このときアブドゥッラ・ハンは、アクサライがいかに大きいかをはっきり見ました。壮大な廃墟は現在まで残っています。それは多かれ少なかれ、この荘厳な建造物のかつての規模を想像させます。宮殿の頂上には噴水がありました。そこへの水は、山々から陶製の水道管によって送られました。25年かけて宮殿は建設されましたが、ティムールがここを訪れたのは、その死の1年前の1度だけだったそうです。

町の南西部にティムール朝期のシャフリサーブスの遺跡が残っています。主に、かつての巨大な廟群の遺構です。ドルス・シアダット廟(権力の霊廟、「預言者の子孫の家」)には、アミール・ティムールの愛息ジャハーンギールが埋葬されました。廟群はティムール朝の菩提所となりました。ここで今、生い茂っている長寿のプラタナスは、シャフリサーブスの聖なるシンボルです。

ほかの廟群は、ドルッテイロヴァット(「瞑想の家」)です。そこにはふたつの廟があります。ハズレティ・シャイフ(シャムスッディーン・クラール)のものと、グンヴァズイ・サイダーンのものです。また、金曜モスクであるコク・グンバズ(「青いドーム」)もあります。今日、シャフリサーブス(「緑の町」)では古来の伝統と建築遺跡が注意深く保存されています。すべての発掘箇所は保護するために川の砂で埋められ、仮設建物で閉じられています。しかし観光客が見ることができるように、古代の陶器の堆積のいくらかの断片はそのままになっています。